まえがき

「絶対に開けてはいけません」。

 

日本なら乙姫が浦島太郎に与えた玉手箱を想像するだろう。
そもそも開けるための道具を与えておきながら、開けてはいけませんと言う。
気になるじゃないか。作戦か?「開けさせる」ために言っているのではないのか?もし開けてまずいなら渡さなければいいじゃないか!

しかも、どこか背徳感のにおいがする。開けるものなのに開けてはいけない。開けるという悪いことをしてしまいたい衝動に駆られる発言ではないのか?これは心理操作じゃないんだろうか。

 

ヨーロッパでもパンドラの匣は「開けてはいけない」と言われ渡される。
普通に会話をしているなら、例えば母親が子供に「急に道路に出たら車に轢かれることもあるから出ちゃダメよ」と言ったのなら、それは禁止以外の意味がない。ところがこの背徳感満載の匣や箱は、禁止ワードを使いながらそれを破らせようとする意図が背景に見える。
しかも。
禁を破ってものすごい不幸を与えていることを、ちょっとどこかで喜んでやしないか?「あーあ、開けちゃったよ。馬鹿だねー」というニュアンスが含まれているんじゃないか?相手がわかっている罠にかかってニヤリとしているんじゃないのか?

こうした「言葉」と「状況」から、その言葉を発した相手の心理を読み取ることができる。
言葉は心を表す。もし箱を開けさせないなら、絶対に渡さなければいい。
何かの事情、例えば脅迫されているなどの理由で渡さなければならないなら、もっと言葉を継ぐだろう。短い言葉しか伝える時間がないのなら「私を信じて」「とにかく開けないでお願い」という渡し手主体の言葉を使うはずだ。「絶対に開けちゃダメよ」という発言は責任を相手に丸投げしている。

このように、使う言葉によって相手の心理や意図を読み解くのが言語心理学だ。
そして箱の話はまだ終わらない。

 

パンドラが匣を開けて飛び出したものは、この世の災いの全てだと言われている。
例えば「悲しみ」「裏切り」「不安」「恨み」「争い」「嫉妬」「後悔」「病」「死」「貧困」など。余談だがどのような文献を調べても「.など」という言葉がついて、具体的に何が飛び出したのかは特定されない。
そして、箱の底に引っかかって出てこれなかったものが「希望」だと言われている。
最後に「希望」がパンドラにお願いして、アンチ災いとして世に解き放たれたという。

浦島太郎もパンドラの箱(ギリシャ神話)も、諸説見方があるが、大雑把に要約すればそういうことになる。

さて、最後に残ったのは「希望」だ。この「希望」にこそ・・・・・問題がある。

希望、それは前向き。それは窮地や困難の中にあって明日を照らす一条の光。
希望、それは人類最後の砦。どのような災いが起こったとしても、私たちは明日を明るいものと夢見てやっていけるのだ!いや、いけるのか?

果たしてそうなのか!?さてここで考えてみてほしい。
私たちが「希望」という言葉を使うときはどんな時だろう。言葉を使うということは、その概念を必要としている時や基準にする時だ。

 

「希望」という言葉は、普段日常的に使う言葉ではない。
例えば「こんにちは」「ありがとう」や「ランチ」「テレビ」のようには頻度が高くない。
「希望」という言葉を使う時は、それを使わなくてはならないシチュエーションがあるはずだ。
私たちはどんな時にこそ「希望」という言葉を使うのだろう?思い出してみてほしい。
自分が過去使っていそうな場面、テレビや映画、小説や漫画で使われていた場面を。

「希望」という言葉が使われるのは、希望がないような状況ではないか?災いに対抗するために、最後に希望が残ったというのは、災いの場面で希望は使われるのではないのか?つまり、災厄でどうにもならない時にこそ「希望」の出番がやってくるんじゃないのか。
そう考えると、ある意味「希望」も災いワードではないのか?

 

心理学では古典的に有名で、文学としても知られている「夜と霧」という本がある。精神科医で心理学者のヴィクトール・E・フランクが強制収容所でした体験が書かれている。

著者は収容所から奇跡的に生きて帰ってくることができた。
あまりに過酷な収容所の生活からなぜ生還することができたのか?多くの人は、精神的に壊れてしまったり自死を選んだという。それも「クリスマス」の時期に多くの人がそうなった。
それはなぜか。

あるとき収容所に「クリスマスには解放される」という噂が広がった。多くの人がそれを信じ、期待し、そして「希望」を持った。いつこの過酷な状況から解放されるか、約束はもちろん目処も何もない。
終わりのない作業は拷問になる。そんな中で立った噂に、過酷な労働と乏しい食事しか与えられなかった収容者たちは飛びついた。ところがクリスマスが来ても、誰も何も解放などされなかった。
それで力尽きる人が後を絶たなかった。

希望を持つことは良い行いなのだろうか?

少なくとも、希望を持つ・・・それも強く持つときは、決まってひどい状況や状態に置かれた時だ、ということはわかる。希望はマイナスをゼロに戻そうとする期待値のことだ。
そして少なくとも「希望」を口にしたり、文字にする人は、言語心理的に言って「今自分はマイナスのひどい状態です。災厄にやられています」と告白していることと同じ意味を持つ。

「希望」という言葉を使わなくてもいい。内容が希望なこと、方向が期待なことばかり言葉でアウトプットするような人は、言語心理分析的に考えて「ダメな状態」にある、といえる。

「希望」はどちらかといえばポジティブで、輝いていて、前向きで、心を打つことがあり、誰しもが胸にしっかりと持つべきだ!とすら思われることがあるものだ。小さな希望でもこの条件は変わらない。

例えば「.したい」「.してほしい」「.がほしい」という些細で日常的な物事すら、この発言をする時はその背景に「不足」があるのが見て取れる。充足しているならそもそもそれを言う必要がなくなるからだ。

 

言語心理学では、使う言葉から背景にある心理が読み取れる。
その言葉を使うということは、どのような状態に立たされており、何を欲しているか。
そしてそれを欲した時、なぜ他の言葉ではなくその言葉を使うのか?ということを紐解いていくと、その人の思い込みや情報、考え方の癖や行動パターンまで理解できるようになる。

 

例えば「希望」を多く語る人は、自分が本当に欲しいものは決して手に入れられないという思い込みがあり、それを証明するような情報を日常生活の中でよく拾う。

希望する内容にもよるが、考え方のベースにあるのは「欲しいものは手に入らない」で、ニアミスしながら必ず去っていく手に入らないものを希望する。

 

何事も大幅に手に入らなければ、希望したことが無意味になる。
そういう人は希望ではなく絶望やあきらめの状態にあるので「希望」という単語は使わない。
もし簡単に手に入るなら希望を持つ必要はなくなる。
だからただ当たり前に思い通りになる人も「希望」という言葉を使わない。
ギリギリのところで手に入れてしまったら、「本当に欲しいものが手に入らない」と思い続けてきた自分を否定することになってしまう。
だから、手に入りそうで入らないものを見つけて「希望」を持てる状態になれるように仕組む。
そして、そういう人の行動パターンは、その考え方に従った「おしい」行動を取るようになる。
もし(困難なはずの)読みが外れて意外に簡単に手に入りそうになると、他に用事を作ったり、無意識で健康状態の調子を悪くしたりしてスルーするように仕組み直す。
「もうちょっとで手にすることができたのに」となるようにする。

そして次の希望に移る。「白馬の王子様が迎えに来てくれたらいいのに」。

「希望」を重視している人は、微妙に諦めつつ、仕組んで努力をし、ごくたまに・・・15回から20回に一度は物事を思い通りにできる、という心理、行動、結果を持つことが、この一語から分析できる。
もちろん必ずしもそうでない場合もあるし、相手の性質や、取り巻く状況によっても分析は違ってくる。
だが、概ねどのような傾向があるのか?ということは言葉から読み解くことができるのだ。

 

言葉のマジック、言語心理学をもっと深く読み解いていこう。