音の言葉

ここまでよく使われる2つの言葉を見てきた。
文化的に国民が使う言葉。そして制約する言葉。
文化的な言葉からは大きな前提が、制約する言葉からは不足の前提が明らかにできることがわかった。

最後にもうひとつ、高頻度で使われる言葉を書いておこう。
この言葉は、一説には世界の言葉の中で日本語が2位を突き放して圧倒的に単語数と表現が多いとされている。
まさに世界に誇る日本の言葉、それが・・・擬音語と擬声語だ。(韓国語の方が多いという説もある)

 

80年代にマーガリンのラーマソフトのCMがあった。
街ゆく人にマーガリンを塗ったパンを食べてもらい感想を聞く。
このCMが衝撃的で記憶に残っているのは、食べた人が「まったりとしていて.」と答えたことだった。
学校の友達と「まったり」が話題になり、うまいこと言う表現だということで使いたくなった。(youtubeで「日本リーバラーマソフトCM」で検索すると動画が出る)

調べてみると元は京都の言葉であるという説が強く、このCMと美味しんぼで使われたことによって全国に広がったらしい。
90年代から食感に対する言葉としてだけではなく、「まったり過ごす」という「状態」を指すようになった。
おじゃる丸で使われたのがきっかけであるらしい。

 

日本語は特に食感に関する擬音語の数が圧倒的に多いという。
確かにソムリエのワインの評価は「小春日和のシャンゼリゼ通りを2匹のプードルを連れて優雅に歩きながらそよ風に裾が翻るような風味」と、よく分からない、しかし【イメージ】を喚起する言葉が使われる。

に対して日本語的な表現なら「外はカリカリ、中はフワフワ、噛み応えはまったりしているがそれでいてすっきりしており、飲み込むと香りがフワっと浮き上がってきて後からスカッとしたものが上がってきます」と言って話が通用する。

イメージは五感感覚の中でも視覚情報が強く、大脳新皮質の外側を使う。
に対して、食感と音を表す表現から喚起されるイメージは、もっと体感的で感触的であり、より直接的に触覚に訴える。
ということは、擬音語、擬声語は、抽象概念を(無理やり)言葉にしたもので、本来言語の枠に組み込むことが難しい「感触」を言い表したものだということになる。

五感の中では嗅覚が最も言語化しにくく、味覚はこの擬音語を省くと実は言い回しが逆に稚拙になる。
基本的な味覚となっている甘い、辛い、酸っぱい、しょっぱい、渋いの組み合わせの表現になる。
「爽やか」というような言葉を使うとより視覚的な体感になり、本来の感覚から少し遠ざかる。
その証拠に、適当な言葉のほとんどない「香り」を表現する時に、もし「爽やか」と言ったなら、想像し得る香りは数種類出てくる。だからもっと修飾語をつけることになる。
「柑橘系の爽やか」「夜の海の爽やか」「すっきりしたハーブの爽やか」「朝のひんやりした山の爽やか」。
そしてこういう表現は香りを嗅いでから表現を聞くとイメージが正確だが、逆に言葉からどのような香りかを特定することは困難、というよりは不可能になる。
味覚も同じことが言える。

擬音語の前提はより感覚的であり、抽象的であること。
イメージや具体的な言葉では再現できないし、ときに説明できないニュアンスを含む。
だから擬音語を多用する人は、感覚的な人が多く、中には理論的に説明したり解説することや、筋道を通して順番を説明することが苦手な人がいる。

逆にイメージできる言葉や、表現の言葉を的確に当てはめて使うことができる人の前提は、頭がよく論理的であり、人によってはあいまいなものや抽象論を許さない人もいる。
言葉の選択が非常に上手い人は、感覚的で擬音語や擬声語として表現できないもの、あるいは音としても表現できないような抽象概念を見事に言葉に変換できる人もいる。
そういう人は、感覚的な言語、理論的な言語の両方に強いという前提がある。
この前提をもとに、もう少し話を進めてみよう。

 

関西出身の私も中学生の頃、友達と連れ立って無駄な時間を過ごしたが、その時のダルい会話はこうだった。
「だからそれはバーンてなるから、ガーンやん。やからドーンと行くんや」みたいな話し方をしていた。
そして不思議と通じていた。この「通じる」が何を指すかといえば、具体的な理解でないことは明らかだ。
音は雰囲気を伝えても意味は伝えない。
つまり「共感」的に通じたということだ。

だから擬音語、擬声語が多い人の特徴の大きなものは共感を求めたり、重視していたりすることにある。
共感は感覚を共有してもらうということで、実際のところ本当に上手く伝わったのかわからないし、確認する術もない。
なのに、それをやり続けるということは、実際に伝わったかどうかではなく、賛同してもらったかどうかが心理的なポイントになる。
つまり承認欲求が強く、トラウマなどの理由によって承認されても満足はしないという心理背景が読み取れる。

大人であれば、社会生活をする上で一定の説明言語を習得している必要がある。
個人差はあるにしても、自分がわかってほしいことや伝えたいことが上手く伝わらないまま放置しているのだとしたら、それは自分自身を諦めているに等しい。
つまり、自分にとって大事なことをいつまでも擬音語、擬声語に頼っている人は、大切な何かを放棄している人だといえる。

逆に説明言語では捉えきれない表現を擬音語、擬声語で的確に捉えている人・・・例えば料理人や、ソムリエ、調香師やスポーツ選手などは、誰にわかってもらえなくても的確に言い表す擬音語を使っているなら、それは極めて優秀か天才である可能性がある。
なぜなら、感じ取るという微細でありながら複雑なものは、常用単語で言い表すことは不可能だからだ。
その言語の枠を超えたものを感知して表現しているのだ。
人がわかる言葉で説明できないことが劣っているのではなく、逆に優れすぎていると見ることができる。

日本語では「さらさら」や「しとしと」のように、情景に対する擬音語も多く、情緒や感性に優れている場合も同じような傾向を読み取ることができる。

ただし、愛が深すぎる、想いが強すぎる、となるとまた別の働きがある。
例えば子供が事故に遭ったと聞いて病院に駆けつける。思ったよりは軽症だった。
だがこのまま死んでしまったらどうしようという大きな心配を抱えてやってきた、という場合。
大きな声で「どれだけ心配したと思っているんだ!」と言うなら、表現がストレートで判りやすい。
言語心理ではその場で自分の感情メインの言葉を使うことが、実際には相手よりも自分を優先していると判断するんだが・・・まぁここではいい。

しかしこれが愛する相手への大きな心配を、こんな言葉で表現したらどうだろう。
「お前のことをどれだけ愛していると思っているんだ!」。何か違和感を感じないだろうか。
え?今ですか?それ。えーと、それで?と拍子が抜ける。
本当に強大に愛している(から心配した)し、正確に表現しているのにもかかわらず上手くマッチしない。

ではこれならどうだろう。重症だと思って駆けつけて、軽症な様子を見て、安堵して力が抜ける、だけど油断してはいけないし話すべきことがあるので向き合うが、涙目になり、力が入らず、手先が震えて言葉が出てこない。
何度も話そうとするが「ぁ」ぐらいしか言えない。
口に力を入れて一文字に絞り、泣きそうなのはこらえながら、もう何を言っていいかわからないまま、口をついて絞り出すように出たのが「愛してる」だとしたら、本当の想いが後ろにあると思えないだろうか。

これは分析的なことだけをいえば、使う単語や言葉に心理が表れるだけではなく、タイミングや間、体の状態、動き、態度、雰囲気も大事だ、ということになる。
だがもっと大事なことは、抽象的だが概念のある言語を一言だけ言う時は、明確な意思や強い想いが背景にあることが多い、ということだ。

昭和タイプの厳しい父が、娘の彼をずっと認めなかったが、いざ結婚式になったら一言「幸せになれ」と言ったのなら、その言葉の背景には強い意思や想いがあることが読み取れる。

放蕩癖がある浮気者だが、奥さんが素晴らしくできた人でなんとか上手くやってこれた。
しかし今回だけは背筋を伸ばして凛と座り「別れましょう」と言ったなら、それ以外の選択は全くないように思える。

 

擬音語、擬声語、短く抽象的な言語は、どれも日本の文化に根ざしていて、他の国にはあまりないという傾向がある。
ということは、この言葉を使う人であればあるほど、感覚的、情緒的、天才的、強い意思がある、または逆に承認欲求が強い、という傾向があることがわかる。
その前提には、我慢、忍耐、身近なものを尊び感じる、精神性を物質よりも優位に置く、目先の利益よりも本当のあり方を重視する、礼儀を尽くす、というような背景がある。

この前提を背景に持つ人が擬音語、擬声語を使う場合、言語心理的にその人の実像が浮かび上がってくる。

大きく使われている言葉や表現の「前提」を知れば、言語心理を扱う上でそれが軸になる。その軸を基準に背景を探ることができるようになる。

だから言語心理学ではまず前提を知る必要がある。何かの言葉の前提には何があるのか、ないのか、ということを明らかにすることが大事なのだ。