余計な一言

余計な一言、を聞いた経験は誰にでもあると思う。

いい話をしていた最後に、なぜか残念なおまけをつけてしまう。
言わなくていいことをわざわざ言ってしまう。
私が中学生の時、保健の授業で教師がこう言った。
「大きな怪我をしたり、事故に遭った人がショックを受けている時に、折れているとか血が出ているとか言ってしまってはいけない」それによって、麻痺していたのに激痛を感じることもあるのだろう。
ある日学校で、巨漢の同級生が骨折するような怪我をした。
周囲には私を含めて5人ぐらいの人がいたが、励ます係、先生に伝えに行く係と、なかなかキビキビ接していた。
巨漢の彼は顔が真っ青になり、血の気が引いて見るからにまずい状況だった。
そこへその場に初めて現れた岩崎という同級生が言った。
「うーわ、何お前。顔真っ青やんけ」。
それまでの周囲の努力は全て無駄になった。
だが今思い返してみると、そこは中学生だ。私も含めて岩崎に全員がこう言った。
「お前、人がやばい時にそれを指摘したらあかんって先生が言ってたやろ」「そうじゃこのアホ」・・・。巨漢の彼はその言葉で真実をより深く知ったに違いない。

『余計な一言』は【空気が読めない】ことがすぐにわかる。

 

私が自分の会社を経営していたとき、社長をある女性の方に任せていた。
ある日彼女から話があると言われた。
聞くと妊娠したということで、これからの仕事の仕方などの相談だった。
話が一通り済んで彼女はこう言った。
「まだ不安定な時期でどうなるかわからないから、社員には伏せておいてください」私は「わかった」と言った。
その後4.5人の社員と何かを話していた。

社長の話になり、なんか様子おかしくない?という話題になった。
もちろん何も知らず存ぜず話を聞いていた。
すると話が、でも社長は頑張っててとか、気遣ってみたいな話になり、なんだかお前らいい話してるな・・・と思っていたら、話が私に回ってきた。
「そうやな。子供もできたことやし・・・・あ・・・」ついうっかり口が滑った。
人生で後にも先にも口が滑ったのはこれきりだと思う。

「今のなし」は、なしにならなかった。
『余計な一言』には【うっかり】が含まれることがわかる。
なら『余計な一言』が多い人には一体どんな心理背景があるのだろう。

純粋に「空気が読めず、うっかりしすぎる」人などいるだろうか?もちろんいるはずがない。
毎回必ず、何度も余計な一言を言うのなら、それは何かがおかしい。
余計な一言は「空気が読めない」と「うっかり」の特徴があるから、この言葉をいつも使う人は「空気が読めず、うっかりしなければならない何かの理由」がある、ということになる。
それをやるメリットがあり、それをやらなければデメリットがある(と思っている)。

空気が読めない、いつもうっかりするという状態からは、なんだかとてつもなく頭の悪い印象を受ける。
いつもそれをやっている人を想像すると、周囲は「またかよ」とうんざりしているような情景も目に浮かぶ。
そんなことのどこにメリットがあるのか?

 

心理的に見れば、いつもうんざりされるということは「いつも反応を取ることに成功している」つまり、構ってもらっているということになる。
空気が読めて適切な相槌を打つよりも、言ってはいけないことを言ったほうが大きなリアクションを得ることができる。

みなさんにも、一緒にいるだけで必ず誰もが不愉快になる人がいたことがないだろうか?私が小学生のときは森下くんがそうだった。
周囲の同級生も、先生も、性別や年齢の垣根を越えて皆が等しく森下くんにうんざりしていた。
大人になってセミナーとコンサルティングの仕事をしはじめてからもいた。
『いつも必ず全員を不快』にさせるのだ。相当のセンスと才能、強みを使っている。
やろうと思ってできるものではない。
つまりメリットのふたつ目は「自分の力を存分に生かす」ことができる、ということにある。
それがいかに望まない結果になろうがどうだろうが【自分自身を十分に生かしていると自覚できる】ことは間違いない。

「ついうっかり」なら、誰にでもそういうことがある。
常用するようになったら、その心理背景に独特のメリットがあると分析する。
ではついうっかりが、ごくたまに出る場合はどうだろう。

そういうときは、その「ついうっかり」に特徴や傾向があることが多い。
状況やシチュエーションが同じ時はいつもそんなことをやらかしてしまう。
常習者と違い、本人は自己嫌悪に陥ったり、なぜあんなことを言ってしまったのだろうとショックを受けることもある。
『しかしその条件が揃えば必ずそんなことを言ってしまう』。

 

私の知り合いのセミナー講師の元に受講しに来た人の話だ。
講師が何かのアドバイスをした。
するとその人は、「いや、でも私は別の講師の○○さんにこう言われていて守っているのでそれはできません」と言った。
なら何をしに、なぜ来たんだ?ということになる。
この言葉の背景をもう少し分析してみよう。

まず、自分が意見を採用しない理由を、他人に言われたからだと言っている。
このことだけで、自分で選択したり決断しない習慣があることがわかる。
また先行心理といって、人は先に得た情報の方を正しいと思ってしまうのだが、それが働いているようにも見える。
内容は「やりません」と否定しているにもかかわらず、自分に責任はないという言い方をしているので、責任回避や人のせいにする習慣があることがわかる。
しかも、発言内容自体はそういうこともあり得ることを言っているので・・・正当(そう)な理由なので、うまく通る理由を生み出せる能力があることと、それによってこれまで凌いできているはずなので、自分が責任回避をしている自覚はない。
このあたりまでは、言葉の内容と意味から推察できる。

 

言語心理を読み解くのはこのぐらいでいいが、「余計な一言」の場合はもうひとつ分析する必要が出る。
基本的に余計な一言というのは「言わなくていい」「言わないほうがいい」言葉のはずだ。
なぜなら【その発言が自分にも他人にも成果にも『何一つメリットを生み出さない』】からだ。
そして必ず【本人にデメリットが生まれる】。
余計な一言にはそういう特徴がある。

何一つメリットを生み出さないことを、なぜわざわざ言わなくてはならないのだろう?そういう場面は一体どういうときなのか?おそらく、混乱している時や相当の危機の時、パニックになってわけがわからないときじゃないか?

「いやでも、そのセミナーでは別に危機はない」と思うかもしれない。
私もそう思う。だがこの人はそうは思わなかったのだろう。
客観的に見て、また、論理的に見て、特に危険なことは何もないのにもかかわらず過剰な反応を示す。
それには何か大きな思い込みがあるはずだ。
このシチュエーション解説だけでは、その背景が何かはっきりとはわからないが、「文面の内容」から最初の講師の○○さんによる、この人への強制力や大きな制約があることがわかる。
とするなら、「権威に従わなければ大きな罰が下る」「言いつけを守らなければ嘘つきなダメ人間だと確定してしまう」など、よほど大きな思い込みがあることはわかる。
分析の方向もこれで間違っていない。あくまで特定はできず、方向になるが。

つまり余計な一言の最後の特徴は、【同じような場面でそれが必ず起こるときは、背景に大きすぎる強制力か制約(という思い込み)がある】ということだ。