ピンチのとき

落ち込むことは人間誰にでもある。
落ちることが悪いとは言えないし、だから落ちた時を取り上げて「この人はこんな人間だ」と決めることもできない。だが、心理背景にある基準を見分けることができることもある。
突発的な危機が起こったとき、人間性が問われるとよく言われる。
とはいえ、ほぼ誰もが自分の保守に走る傾向があることは動物として正しいし、知っておかなければならない。

 

自分がハンドルを握り、助手席にもう一人が座っているシチュエーションで、突然目の前にトラックが現れたら、ほぼ誰もがハンドルを右に切る。
その方が自分がより早く回避できるからだ。
だから助手席の死亡率は全席の中で一番高い。
しかし、それをするからといって自分中心の人間とはいえない。
動物的反応をその人そのものだということはできない。
ピンチというのはプレッシャーがかかったときのことだ。言語心理分析ではなく、普通の心理分析で考えるなら、その物事をなぜプレッシャーだと感じてしまうのか?ということを明らかにできるが、言語心理分析では起こってしまってからの発言に注目する。

 

私が18歳のとき、白馬の旅館で住み込みのバイトをしていた。
昼の空いた時間ははじめてのスキーをしにゲレンデに出た。
あるとき、まだあまり上手くはないのにかなり上の方に登り急斜面を滑り始めたところ、急な加速にバランスを保つのが精一杯でなかなか曲がることができなかった。
どんどんゲレンデの端が近づいてくるのだが、その先が崖とまでは言わないが切り立った急斜面になっているのは知っていた。
スピードが出てどんどん近づいてくる。
実際に発声したわけではないが、頭の中ではこんな声を出していた「落ち着け。スピードにも慣れてきた。落ち着けば今まで曲がった経験があるのだから、それをやれば曲がれる。
パニックになって助かる見込みが高まるわけがない」。
結局ギリギリのところで上手く曲がることができた。

逆の言葉が出たこともある。
今では亡くなってしまった飼い犬が、その犬種がかかりやすい病気になり手術を検討するようになった。
これまで自分も身近な人も大掛かりな手術・・・事故や病気になったことはなく、体を金属の刃で切り刻むなんていうのは考えたこともなかった。
どうしていいかわからなくなり、頭が真っ白になり、はっきりと覚えてないが幼稚で同じような言葉が頭の中を流れていたと思う。
そのときは別れた奥さんが取り仕切ってくれてやり取りに不備が出ることはなかった。
こういうピンチのシチュエーションからわかることはいくつかある。

まずは、どのような方向や考え方に長けているか、逆に劣っているか。
スキーのとき、目の前の自分に迫る危機に対して、自分の知識と経験をうまく使えばどうにかできることがわかっていた。
に対して飼い犬の手術のときはその情報がなくどうしていいかわからなかった。
逆に別れた奥さんはその道に強かった。

東北の震災が起こったときも、その後冷静に全ての行動をすることができた。
未経験であるにもかかわらず。
そのときも自分の持っているものをどう活用すればいいのか?という原点から考えることができた。
家のこともそうだし、ブログを使って直接募金の企画を組んだこともそうだった。

 

窮地に陥ったときに冷静に物事を正しく進められるのは(そういう言葉を使えるのは)その道か、そういうことが起こったシチュエーションに対する準備と心構えに長けているからだ。
なら、普段からその人がその道やシチュエーションに何かしらのコミットがあることがわかる。
飼い犬の手術で真っ白になるのは、普段からその道やシチュエーションにコミットがないことがわかる。

さらに、使う言葉に注目すると、普段からその道にコミットしている理由もわかる。
「しなければならない」なら強迫観念と義務感があるのでやっているが、本当はやりたいわけではない。
もしそういう人が、ピンチに陥ったなら、普段プレッシャーを持って挑んでいることが花開くことになるので、「ピンチを見事に乗り切った自分」を通常よりも高く自己評価する。
だから例えば「俺にとっては楽勝だった。他の誰も身動きが取れないときに俺だけが次々と手を打てた」というような過剰な表現になる。

「真っ白になる」という場合は、もしかすると日常で全くそのような機会とは無縁だったかもしれない。
平和しか経験していない人が、突然戦争状態に置かれたら恐怖心はものすごいことになるだろう。
何も考えられなくなる。
逆に、日常で当たり前だったのに様々な手法を駆使し、「ないこと」にして逃げてきたかもしれない。
そうなら、もう逃げられないとなったときに「ないこと」にはならないので「真っ白」になる。
そういう背景の違いも使う言葉に注目していればわかる。

前者なら前向きになんとかしようとする的外れなことを言い出すし、後者なら後ろ向きに逃げようとするどうにもならない発言をする。

 

ピンチを避ける言葉からも、その人の心理背景を読むことができる。
どのピンチに対してより過剰反応するか?によって大枠のところがわかる。
そしてそれは普段の何気ない会話に表れる。今目の前にないピンチは、すべて将来の不安だ。
まだ起こっていない、起きるかもしれないし、起きないかもしれないことだ。
そして私たちが恐れている不安のほとんどは、その恐れと反比例して起こることはほとんどない。

例えば、テレビでインフルエンザが流行っていると流れる。
「そんなの罹らないし、罹っても治るよ」と楽観視している人と、「これはまずい。予防接種をしなければとんでもない目に遭う」と悲観的に捉える人の、インフルエンザ罹患率は変わらない(超心理学の実験では罹ると意識している人の方がほんの少しの%高くなる)。

ということは、インフルエンザに罹る率は変わらなくても、楽観的な人は恐れのない、あるいは危機感の薄い発言をする。悲観的な人は、インフルエンザに罹る率を心配する以上の過剰な発言をするはずだ。
「取り返しのつかない事態に陥る前に適切な手を打つべきだ」というような発言のことだ。

逆に危機率が非常に高いのに(負債を抱え倒産寸前など)楽観的な人は未だお気楽な言葉を吐くだろうし、悲観的な人は絶望は避けられないという言葉を吐くかもしれない。

ピンチが本当にピンチであるか、適切なプレッシャーはどこにあるか?を考えるとき、その危機が現実になる確率の高い低いによって「適切な言葉」が使われているかどうか、を探る。
低いのに危機感満載なら過剰防衛の傾向があることがわかる。
高いのに楽観的なら自分の気分が楽ならそれでいい自己中心的な判断の持ち主であることがわかる。

ただし、高い危機率は適切に捉えているものの、そうなっては困るという恐ればかりに目がいって、「現実は正しく見ているが、正しい手は打てていない」人は、「まずい」「困った」というような発言が多くなる。
パニック映画で、みんなが危機にあるのに「なんでこんな目に遭わなきゃならないんだ!」とどうしようもない発言をする人はこれにあたる。
この発言をするということは、ゾンビに街が襲われていなくても、普段の小さな危機の中で自分が被る被害を嘆く傾向が強く、適切な手は打たないことがわかる。

むしろ自分が打ちたい手は打つが、その結果悪くなることは避けたいというような、自らの因果に対する責任が薄いことが言葉から読み取ることができる。