理解促進の脳内変換

昔知人に、待ち合わせ場所か何かの話で説明するために特定の場所を説明した。
「大きなターミナルA駅から○○線で一駅の△△という駅だ」と伝えた。
すると知人は少し考えてから「□□神社のあるところですね」と言った。実はこれが脳内変換になる。

私は「□□神社」だとは一言も言っていないのが分かるだろうか。
というと、それは会話では当たり前のことだし、よく考えて間違わないようにしたのに何がいけないのだと思うかもしれない。
もちろんこの場合いけないことはないだろう。
だが、「脳内変換」しているかいないかといえば「している」のだ。

 

これが『理解促進の脳内変換』だ。
理解の整合性を取るとき、私たちは共通認識を持とうとする。
でなければ話が進まないし、誤解の元になるからだ。
待ち合わせ場所を指定したときに、上のような会話が起こることは珍しくないばかりか当たり前だと言っていい。
だけどよく考えてほしいが、「大きなターミナルA駅から○○線で一駅の△△という駅ですね」と復唱して理解することに何の問題もないことが分かるはずだ。
神社を引き合いに出さなくても、十分に通じる言葉と内容を伝えている。
なのにわざわざ神社を話し出すのは、自分の理解に変換しているからだ。
人の理解は確実に正解かどうかわからないが、自分の理解なら「自分では」正解だと思える。

こうして多くの人が、「自分の理解のために元々の言葉と意味を曲げる」ということをしている。
その必要がないときにもそれをする。必要がないのにするということは、心理的には不整合な状態にあるので、『その理解の言葉が何をベースにしているか』ということを探るとその人の心理背景を読めることがある。

例えば「□□神社のあるところですね」と言ったなら、神社好きである可能性があるし、地理を考えるとき寺社仏閣をポイントにするか、そういう大きな建物を目印にする性質があるかもしれない。
あるいはその神社が誰もが知っている神社なのであれば、「わざわざ相手との理解の整合性を取るために別角度から確認する性質」があるかもしれない。
もしそうなら慎重で確実性を重視し、相手にイメージさせる会話をする人であることが分かる。